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東京高等裁判所 昭和44年(ネ)1499号 判決 1974年6月24日

控訴人 岡田正雄

<ほか四名>

右五名訴訟代理人弁護士 菅井敏男

右訴訟復代理人弁護士 片桐真二

被控訴人 国

右代表者法務大臣 中村梅吉

右指定代理人検事 岩佐善己

<ほか三名>

主文

本件控訴をいずれも棄却する。

控訴費用は、控訴人らの負担とする。

事実

一  控訴代理人は、「原判決を取り消す。被控訴人は、控訴人岡田正雄に対し金一五四万五、三八二円及びこれに対する昭和三四年一〇月一七日から支払ずみまで年五分の金員を、控訴人岡田穣、同岡田得多、同岡田セイ子、同岡田芳に対しそれぞれ金三八万六、三四五円及びこれに対する同日から支払ずみまで年五分の金員を支払え。訴訟費用は、第一、二審とも被控訴人の負担とする。」旨の判決並びに仮執行の宣言を求め、被控訴代理人は、控訴棄却の判決を求めた。

二  ≪中略≫(原判決六枚目裏上欄一〇行目から同七枚目表上欄一行目にかけて「漫然とペニシリン製剤の使用を決定した過失がある。」の次に次のとおり加える。「被控訴人主張の別紙診察及び治療表記載の国立松山病院における診療の経過のうち、栄が昭和三二年一一月二一日同病院において診療を受けたこと、昭和三四年一〇月五日同病院において穿刺排液の処置を受けたこと、同月一二日、一四日、一六日にいずれも同病院において診療を受けたことは認めるが、その余の点はすべて争う。」)

控訴人の附加した主張及び認否

(一)  岡田栄の死亡は、昭和三四年一〇月一七日国立松山病院において同病院看護婦木下ヒロ子が行った四〇万単位のマイシリン注射(以下本件注射という。)によって惹起した過敏性ショックによるものであって、被控訴人主張のように蜂窩織炎ないしルードウィッヒ口峡炎によるものではない。すなわち、

1  栄が本件注射を受けた後死亡に至るまでの症状は、蜂窩織炎(ルードウィッヒ口峡炎も蜂窩織炎の分類に入るから、以下単に蜂窩織炎という。)の症状ではなく、ペニシリン注射によって惹起された過敏性ショック(以下、単にペニシリンショックともいう。なお、マイシリンはペニシリンとストレプトマイシンの合製剤であって、本件においては、マイシリンに含有されるペニシリンが作用したものであるから、本件注射はマイシリン注射であるけれども、特にことわらない限り、以下マイシリン注射を含めてペニシリン注射ということとする。)の症状と一致する。

すなわち、木下看護婦が前記の日の午前一一時三〇分ころ前記病院の中央処置室において栄に本件注射を行い同人が栄に対しなんらの安静の措置をも命じなかったので、栄は、帰途についた。ところが、栄は、その帰途の電車(伊予鉄道高浜線)に乗車中、突然死んでしまいそうなほどの苦痛に襲われ、自宅(同人の母神野マス方)に最も近い山西駅で下車し、暫く休んだ後、苦痛に堪えながら歩行していたが、遂に歩行することができなくなり、道路の傍らにうづくまっていたところ、同所を自転車で通り合わせた知人の介助によりその自転車に乗せられて漸く自宅に帰り着いた。栄は、自宅に到着するや、「のどに丸い物ができた」と訴え、熱は高くなかったが、顔面が紅潮していた。そのうち顔面が真っ赤に、ゆでだこのようになり、ついで全身濃青ないし紫色に変色し、呼吸困難となり、「いーっ」という発声とともに窒息状態となり、心臓活動が停止したか、または微弱となって脈搏が触知できない状況となり、顔面が青変し、全身に真っ赤な斑点が現われ、その後皮膚の色が白色から紫色に変り、更に白蝋色になり死亡した。

一般にペニシリン(これを含有するマイシリンも同様)注射により患者にショック状態が惹起されたときは、まず顔面紅潮、胸内苦悶、呼吸困難の症状を呈し、ついで全身に紅斑様発赤が生じ、急激にチアノーゼに移行し、窒息と思われる状態で死亡するものであって、栄の帰宅直後同人について現われた前記症状はペニシリンによるショック症状と一致するのである。もっとも、栄について現われた前記症状は、本件注射後三〇分以上経過した後のものである(後記のように栄の右症状の発現は注射後三五分くらい後と考えられる。)けれども、医事統計によれば少数の事例であるが、一時間あるいは二時間後に発現した例があるのであるから、栄について本件注射後右症状が発現したのが通常のペニシリンショックの事例と比較して時間的隔差があるということだけで、ペニシリンショックであることを否定することは相当でない。

2  患者に蜂窩織炎が存するときは、一般的症状として、しばしば悪感、戦りつを伴って高熱を発し、皮下蜂窩織炎においては、局所のび漫性腫脹、皮膚の発赤、熱感、圧痛を伴い、これが進行拡大する傾向が強い。蜂窩織炎がルードウィッヒ口峡炎に進展するときは、次のような症状が現われるのが一般である。すなわち、ルードウィッヒ口峡炎は、悪臭の強い膿が口腔底にたまるから、まず口腔底が腫脹し、疼痛を伴い、唾液が異常に分泌する。そうして、炎症は口腔底からおとがい部に広がり、通常二、三日経過すると、おとがい部が板状に腫脹し、開口ないし嚥下困難が起り、悪感、戦りつとともに高熱を発し、脈搏ひんぱんとなり、虚脱状態に陥ることがあるが、通常発疹は見られない。従って、蜂窩織炎においても、ルードウィッヒ口峡炎においても、必ず、右のような症状に対応した自覚症状が患者にあり、かつ専門の外科医師がこれを見れば容易に右掲記の疾病を判別し得るのである。しかるに、栄は発病後発疹がなく、他方同人が国立松山病院において治療を受けていた期間を通じてなんら右掲記のような自覚症状がなく、従ってまたその旨を同病院の主治医に訴えたことがないのみならず、栄の主治医においても、栄につき左頸部蜂窩織炎がある旨を認識した形跡がなく(同病院作成の栄の診療録にもこの点の記載はなにもなされていない。)、突如として、栄の死亡診断書に左頸部蜂窩織炎による死亡の旨が記載されたものであって、右死亡診断書の記載はなんら信用するに足りないのである。

(二)  本件注射は、国立松山病院外科担当医師本吉正晴(以下、本吉医師という。)がその処置を命じ、同病院内科所属看護婦木下ヒロ子(以下、木下看護婦という。)がこれを行ったのであるが、本件注射の使用の前後を通じて同人らには次のような過失がある。すなわち、

1  医師がペニシリン製剤を使用する場合には、次のような注意を払うことを要請されている。

(A) 使用前の注意

(1) 当該患者につき心臓呼吸器系統を診察し、かつ当該患者に関するペニシリン製剤の使用歴、特に当該患者(又はその血族)に関するペニシリン副作用又はアレルギー性疾患の既往歴の有無について問診を行う。

(2) 右問診の結果ペニシリン副作用を起すおそれがあり、他の治療法を用いることが適当と思われる場合は、それによる。ペニシリン副作用の既往歴又はアレルギー性疾患の既往歴があると思われる場合、当該患者が現に副作用を起す状態にあるかどうかを調べるためには、単刺法、乱刺法、乱切法、皮内注射、貼布等の方法を用いる(以下ペニシリン反応テストという。)。

(B) 使用上の注意

(1) 予め応急処置の準備をしておく。

(2) ペニシリン製剤使用後一五分ないし三〇分間患者の安静を保つ。なお、なるべく使用前においても一五分間程度患者の安静を保つのが望ましい。

(3) ペニシリン製剤使用後、血圧降下、便意、喘鳴、脈搏異常、顔面紅潮、口内異常感、クシャミ、胸内苦悶、耳鳴、尿意等の症状が現われた場合は、直ちに応急措置をとる。

(4) 右応急措置としては、通常のショックに対する場合に準ずるが、おおむね次のような処置をとる。

イ 患者の絶対安静を保つ。

ロ 血圧降下の症状に対しては、直ちに強心昇圧剤を投与する。

ハ 呼吸まひの症状に対しては、適宜呼吸刺戟剤を投与し、時として酸素吸入、気管切開等の処置を行う。

ニ 急激な症状が一応おさまった場合は、必要に応じ輸血等を行い、又は抗ヒスタミン剤等を投与する。

(C) ペニシリン製剤のように、生命に重大な危険をおよぼすことのある薬剤を注射するときは、医師がみずからこれを行うか、または看護婦がこれを行うときには医師の直接の指揮監督のもとに置き、医師みずからこれを行うのと同一視しうる事情のもとになされなければならない。

右注意義務のうち、更に(A)・(1)、(2)、(B)・(2)、(C)について詳述すれば、次のとおりである。

(イ) 使用歴の調査について。アレルギー反応(ペニシリンショック症状はアレルギー反応の一種である。)は、人が以前にアレルギー反応を惹起する物質(薬剤であれ、その他の物質であれ、その物質の性質を問わない。これを「抗原」という。)を体内に摂取したとき、その人の特異性により「抗体」が産出される(これを「感作」という。)のであるが、かように人体が右物質により感作された場合に、再び「抗原」が人体に侵入したときにアレルギー反応が惹起される(アレルギー反応は、「抗原抗体反応」とも呼ばれる。)。従って、抗原が、以前に人の体内に侵入したことがあるか否か、すなわち薬剤についてこれをいえば、当該薬剤が当該患者につき、さきに使用されたことがあったか否かが、当該患者につきアレルギー反応が惹起されるか否かの決め手となるから、当然に使用歴の有無の調査が要請されるのであり、その調査は重要視されなければならない。従ってまた、以前に使用されたことがあれば、常に「感作」の成立している可能性があるのであって、単純に「三日前に当該薬剤(本件ではペニシリン製剤)が注射され、これによってもなんらの副作用がなかった」ことをもって、「感作」の成立を否定することはできず、栄について、本件注射の事前に、Aの2列記のようなテストを用いて、副作用を起す状態にあるかどうかを調べる義務がある。

(ロ) アレルギー性疾患既往歴の問診について。アレルギー疾患は多岐にわたり、かつ、ひとつのアレルゲン(抗原)に対してアレルギー反応(抗原抗体反応)を起したからといって、すべてのアレルゲンについてアレルギー反応を起すものとは限らないけれども、ひとつのアレルゲンに対してアレルギー反応を起したことがあるときは、他のなんらかのアレルゲンに対してアレルギー反応を起す危険が常に存在する。アレルギー反応を惹起するか否かは、その人の特異体質によるものであるから、かような体質のある者、すなわちひとつのアレルゲンに対してアレルギー反応を起した者は、他のアレルゲンに対してもアレルギー反応を起す危険があるということができる。従って、ペニシリン薬剤を用いるに際しては、患者本人について過去になんらかの原因によりアレルギー反応を起したことがあるか否かの既往歴の有無を問診する必要が生ずるのであるが、かような問診は、当該患者本人について既往歴の有無をただすだけでは十分でなく、更に当該患者の血族についても、当該患者を介してこれを問診する要がある。けだし、アレルギー反応を惹起する特異体質は相当な率により遺伝するものと学説上説かれているのであるから、たとえ患者本人が自己につき過去にアレルギー反応を起したことがない旨を答えたとしても、更に進んで、患者がアレルギー体質であるか否かを探究、確知するために患者の血族にアレルギー反応を起した者があるか否かを問いただす要があるからである。栄の父の控訴人岡田正雄は、足に水を掛けた程度で蕁麻疹が生じ、過去にアレルギー性鼻炎、偏頭痛にかかったことがあって、明らかにアレルギー疾患の特異体質者であり、栄も父正雄のかような特異体質を知っていたのみならず、栄自身も、蕁麻疹が生ずる特異体質者であり、医師が右のように患者につき、その本人及び血族に特異体質の者があるか否かを問診すれば、これを認識することは容易にできたはずである。

(ハ) ペニシリン製剤の注射後の安静及び安静時間について。ペニシリン製剤の注射後患者が直ちに運動すれば、ショックを誘発し、若しくは惹起されたショック状態が激化、拡大する危険のあることが一般に知られているから、ペニシリン製剤を注射した後は一定時間患者の身体を安静に保持せしめることが要請されている。そうして、その安静時間は通常前掲のように一五分ないし三〇分とされているけれども、どの程度の時間をもって妥当とするかは、注射時における患者が、そのときに置かれた身体の状況に対応して定められなければならない。これを本件注射時における栄についてみれば、なんらの事前テストが行われず、前記病院まで歩行し、診察室を経て中央処置室に至るや直ちにペニシリン製剤の注射が行われたのであるから、その身体の状況からすれば、三〇分の安静時間を要したはずである。それのみならず、仮りに、これを短縮して二〇分間安静に保っていたとすれば、栄のショックの発現は前記電車内ではなく、乗車前に現われたはずであり、そうだとすれば、右病院に引き返して臨機の処置を受け、死をまぬがれ得たはずである。

(ニ) 本件注射は、血管刺入の危険の少ない臀部筋肉内に行われたのであるが、一般に筋肉内注射は、薬液を筋肉組織内に深く注入する方法で行われるものであるから、専ら医師がみずから行うものとされているのみならず、ペニシリン製剤の注射は、ショックを惹起する危険をともなうものであるから、殊更に医師が、みずから一貫した管理と注意のもとに行うことが要請される。けだし、ショックの兆候は早期に発見しなければならないのであって、医師でない看護婦では、その認識範囲は狭くかつ不確実であるから、手遅れを招く危険があるからである。

2  ところが、本吉医師は、栄に対し本件注射を用いるに際し、以上の注意義務になんら意を払うことなく、これを無視し去った。

すなわち、本件注射を行うに先きだち、同医師は栄に対し心臓呼吸器系統の臓器に異常があるか否かを診療することなく、栄が過去にペニシリン製剤を使用したことがあるか、及びその使用の回数等の使用歴並びにこれに伴うであろう副作用の有無につき、更に栄の血族につきアレルギー症状の起った者があったか否かにつきなんらの問診をも行わず、従ってこれが行われたならば当然に実施されたはずの皮内注射等のペニシリン反応テストを行わず、更に本件注射後栄に対し安静を保持さすための措置をなんら講ずることなく、栄の意のままに帰宅させた。本件注射は本吉医師が木下看護婦に命じてこれを行わせたものであるが、このことは次のような事情により前記C(及び(ニ))の注意義務に違反する。看護婦が医師の命によりペニシリン製剤の注射を行うときには医師の直接の指揮監督のもとにおいて、医師がみずからこれを行うのと同一視しうる事情のもとになされなければならないことは、前述のとおりであるが、本件注射においては、本吉医師は、別室(中央処置室)にいた木下看護婦に対し単なる伝票によりその旨を指示しただけで、注射の前後に配慮すべき前記1・(A)・(B)掲記のような事項につきなんらの注意を与えず、いっさいを同看護婦の独断のもとにこれを行わせたのであり、木下看護婦が行った本件注射はとうてい医師がみずからこれを行うのと同一視しうる事情のもとになされたものということができない。

(三)  被控訴人の当審における主張に対する認否及び反ばく

1  被控訴人の当審における主張中、栄が国立松山病院のほかに岡山大学及び九州大学の各附属病院においても診察を受けたこと、栄の患部の疾病は嚢腫と診断すべきものであることは、認めるが、その余の点(ただし、控訴人が原審及び当審において自認した事実は除く。)をすべて争う。

2  控訴人の患部の疾病は結核菌及び膿がなかったから嚢腫であることは明白で、格別診断に困難なものではなく、放置しておいて差し支えのないものであった。そうして、右嚢腫は、触ってみないとわからない程度のもので、外見上異常さが目につくものでなかったから、腫瘤と呼ぶべきものでなかった。

栄は、昭和三四年一〇月一四日国立松山病院に赴き診察を受けたが、被控訴人主張のように、同人の患部が、すでにその当時発赤し、同人において局所熱感、疼痛、不眠、頭痛を訴えていたというような事実はなく、睡眠は十分にとっていた。

従って、福田医師が被控訴人主張のように混合感染の疑いを持ったとすれば、まず検査をして原因と病状等を的確に把握した上でそれに適応する処置をとるべきであり、疑いだけで処置をしたことは、十分な注意を払ったものということができない。しかも、同医師がこの段階でペニシリン製剤を注射したことは不当である。すなわち、栄の疾病に対する適当な治療剤としては、ペニシリンよりもクロラムフェニコール、テトラサイクリン等の方がより広範囲な効果が期待しうるのであって、適当な検査を経ないで、直ちにペニシリンを投与すべきではなかった。

3  被控訴人主張のような栄の死亡原因が腫瘤の増大による深部臓器等の圧迫、炎症の増悪による近接臓器等への炎症の波及、侵襲によるという推定は、なんらの根拠のないものである。けだし、被控訴人主張のような状態であるならば、栄が通院中にそれ相応の症状が現われるはずであるし、被控訴人主張のように死に至るほど重篤であるならば、国立松山病院の栄の担当医師において、入院加療をすすめているはずであるのに、その事実もない。また栄は本件注射の直前まで洋裁賃仕事を深更までしたこともなく、健康状態は極めて良好であって、不眠による肉体的精神的過労等はまったくなかった。このような点からみて、被控訴人の、栄の死亡原因に関する主張はまったく不合理である。

4  右病院において、栄は昭和三四年一〇月五日ころ穿刺排液の措置を受けたが、その際双球菌を感染させられ、その結果同月一一日病状が一変して、従前とは画然と区別されるようになった。

5  被控訴人主張の栄の安静及び安静時間に関する主張は、根拠のない推論であって、とるに足りない。すなわち、木下看護婦は、ふだんはもちろん、本件注射の当日においても栄を含めペニシリン製剤を患者に注射した後は、患者の安静に注意を払うことなく、患者の意のままに帰宅させていた。また、被控訴人の推論の基礎となる栄の平素の通院の際の自宅出発時刻、本件注射当日における同様自宅出発時刻を断定すべき証拠はなにもなく、更に、被控訴人は、本件注射当日穿刺排液の措置を受けた後の栄の行動として、穿刺排液後の治療費の支払、処置室において本件注射を受けるための相当の待ち時間等をまったく計算に入れていないのであって、被控訴人の右の点に関する主張は不合理である。

(四)  第一審原告神野マス子は、昭和四二年一一月六日死亡し、同日同人と控訴人岡田正雄間の子である控訴人岡田穣、同岡田得多、同岡田セイ子、同岡田芳の四名が遺産相続により、神野マス子の有した権利義務いっさいを各四分の一の割合により承継した。従って、控訴人岡田正雄を除くその余の右控訴人ら四名は、マス子の有した本件損害賠償債権の各四分の一にあたる金三八万六、三四五円の債権をそれぞれ取得した。よって、控訴人らは前記(一掲記)の申立欄記載のとおりの判決を求める。

被控訴人の附加した主張、認否

(一)  岡田栄に対する診療の経過

1  岡田栄は、国立松山病院において別紙のとおり診察、治療を受けていたが、そのほかにも、岡山大学附属病院において側頸部嚢腫の疑い、九州大学附属病院において左下顎下部寒性膿瘍の疑いと、それぞれ診断され、国立松山病院においては昭和三四年二月二三日の段階で同病院の外科担当医師福田七生(以下福田医師という。)が先天性頸部嚢腫の疑いがあると診断した。そうして、国立松山病院では、栄が同年一月二六日来院した際、栄の腫瘤から穿刺、排除した穿刺液を培養した結果その液体中に結核菌が検出されなかったので、寒性膿瘍ではなく、単なる嚢腫と診断し、同年二月二三日栄及び附添の岡田正雄が来院した際福田医師が摘除手術をすすめたが、これを拒絶したため、内容液の貯溜により苦痛を訴えて来院した場合に、穿刺、排液を行うこととし、別紙記載のとおり、福田、本吉医師らが患部を穿刺して内容液を排除する処置をとってきた。

2  同年一〇月一四日に至り栄が来院して福田医師が診療にあたったところ、栄の頸部嚢腫の周囲が発赤し、局所熱感、疼痛、不眠、頭痛を訴えてきたので、同医師は患部の混合感染の疑いを持ち、化膿性疾患治療の目的のもとに、当時最も多くの化膿性疾患の原因になる細菌に対して広範囲に適応するとされていた結晶ペニシリン一〇万単位を患部に注入し、かつペニシリンゾル六〇万単位を栄の筋肉内に注射した。そうして、右ペニシリンの投与後二日目の同月一六日栄の来院の際本吉医師が嚢腫の膨脹を認めたので、苦痛軽減の目的をもって、対症療法として、鎮痛剤、神経安定剤を投与し、その翌一七日同医師が本件注射により栄に対しマイシリン四〇万単位を投与したのであった。

右のように一〇月一四日福田医師が栄の患部につき混合感染の疑いを持ちながら直ちに菌培養の処置をとらなかったのは、最も適応する抗生剤選択のため、まず最も適応範囲の広いペニシリン製剤を使用し、その治療効果としての弱い菌の整理を待って(これには少くとも二四時間以上を要する。)、菌を培養すべきものであるからである。そうして、同月一七日本吉医師がマイシリンを投与したのは、同医師において、栄の腫瘍につきペニシリンに対して感受性のない細菌の存在を疑い、かつ外部からの診察では、腫瘍がどの程度に頸部の臓器、神経、血管等に関連しているかが不明であるため腫瘍の増大による深部臓器等の圧迫、炎症の増悪による近接臓器への炎症の波及、侵襲を防止するためになされたものであり、この処置は担当医師としてとるべき当然の措置である。

3  本吉医師が同月一七日右のように穿刺液につき菌培養の措置をとったのは、栄に対し、さきに投与したペニシリンの効果確認と弱い菌の整理を待っていたからであって、菌培養の措置が遅きに失すると非難されるべきではない。

仮りに、栄の患部につき混合感染の疑いを持った同月一四日の段階で福田医師が菌培養の措置をとり、その結果、連鎖状球菌を含む感染である旨が同月一六日ないし一七日に判明したものとしても、昭和三四年当時においては、ペニシリンは、その他の抗生剤に比較してその効果は否定されず、殊にストレプトマイシンはその有効性を期待しうるものであったから、その混合薬であるマイシリンは、右感染に有効であることは疑いを入れない。従って、同月一七日に至るまでに栄につき菌培養措置をとり、その結果右感染の旨が判明したとしても、当時の医師の一般常識としてマイシリンを選択、注射したことに変りがないのであるから、菌培養措置を早期に実施したか否かは、結論を左右する要因ではない。

(二)  栄の死亡は、本件注射によるマイシリンの過敏性ショック(ペニシリンについても同様であるが)によるものではない。

すなわち、マイシリンの過敏性ショックの発現形態は、注射後急速に惹起されるものと、注射時から三〇分以上の経過をまって惹起されるものとの二種があり、後者は遅発性ショックと呼ばれているが、通常前者の形態によるのが一般である。そうして、遅発性ショックについても、注射時を基準にして時をへだてるに従い、多数現象として(統計上のものとして)発生瀕度が僅少となり、注射の時点から一時間ないし二時間の間に惹起される事例は極めて稀れである。

ところで、マイシリン過敏性ショックにおいて、通常の発現形態をとるものであろうと、遅発性ショックの形態をとるものであろうと、その両者間に発生までに右のような時間的差異があるだけで、症状の発現の仕方は、両者ともに血圧降下、脈搏異常、胸内苦悶を前駆症状とし、適切な救急措置がとられない場合は急激に死の転機をみるのが通常であって、この点については両者間に差異はない。更に、右過敏性ショックにおいては、そのショック発現から死亡に至るまでの症状は、直線的に上昇(悪化)し、軽快する場合には直線的に上昇していた症状が直線的に下降(快癒)するものであって、いったん軽快に向っていた症状が波型に(悪化または快方に)進行しないものとされている。

これを栄に対する本件注射の直後からその死に至るまでの経過についてみるに、次のとおりである。

1  本件注射後の安静及び安静時間について。

(1)(イ) 本件注射の当日栄は、以前に同人が松山市内の訴外野本病院において撮影した自己のレントゲン写真を借り出す必要上、ふだん国立松山病院に通院のため自宅を出る時刻よりも早く自宅を出発する必要があったため、同日午前八時ころ自宅を出発したとみることができる。これを基準とし、最寄りの伊予鉄道高浜線山西駅までの徒歩所要時間二〇分を考慮すれば、栄は同日山西駅午前八時二八分発の電車(以下、甲電車という。)か、若しくは同駅午前八時四三分発の電車(以下、乙電車という。以上の電車はいずれも松山市駅行き)に乗車したものとみられるところ、甲電車は、午前八時四〇分、乙電車は午前八時五五分にいずれも松山市駅(同駅は、前記野本病院に最も近い駅である。)に到着するから、同駅から右病院までの徒歩所要時間(一〇分)、同病院における前記写真借り出しのための所要時間(二〇分)及び同病院から国立松山病院に至る徒歩所要時間(一五分)として、合計四五分間を考慮に入れれば、栄が甲電車に乗車したとすれば、国立松山病院に午前九時二五分、乙電車に乗車したとすれば、午前九時四〇分に同病院に到着したはずである。

(ロ) 次に、栄が当日自宅に帰着した際、母神野マス子に「午前一一時四〇分の電車に乗ってきた」旨を申し述べており、その時刻の前後において同線古町駅(国立松山病院に最も近い駅)発午前一一時四四分発(終着駅高浜駅)の電車以外に栄が乗車したものと予想される電車はないから、同病院から右駅までの徒歩所要時間一〇分と電車待ち時間一〇分合計二〇分を考慮に入れて逆算すれば、栄は、同病院を午前一一時二四分に出発して帰途についたこととなる。

(2) 右に述べたところにより、当日栄が国立松山病院に受診のため到着した時刻と本件注射後自宅に帰るため同病院を出発した時刻をおおむね知ることができ、その時刻の間隔が当日栄の国立松山病院における病院滞在時間であるはずである。

これを基礎として、本件注射の時点と注射後の安静時間を求めるには、栄が同病院に通院していたころの通常の病院滞在時間を知らなければならないが、その通常の滞在時間は、おおむね次のとおりである。

すなわち、栄は別紙のとおり、ふだん嚢腫の貯溜液の穿刺を受けるため通院していたものであるところ、特段の事情のない限り午前一〇時ころ自宅を出発し、徒歩で二〇分を要して前記山西駅に到着し、同駅発午前一〇時二〇分の電車(以下、(丙)電車という)か若しくは待ち時間を考慮して午前一〇時四〇分発の電車(以下、(丁)電車という。)に乗車したはずである。そうして、(丙)電車は、午前一〇時二七分に古町駅に到着、(丁)電車は午前一〇時四七分に同駅に到着するから、同駅から国立松山病院までの徒歩所要時間一〇分を考慮すれば、(丙)電車に乗車したときは、午前一〇時三七分、(丁)電車に乗車したときは午前一〇時五七分に同病院に到着することとなる。

次に、栄は、通常の場合右病院で診療を受けた後は、午前一二時過ぎに帰宅していたから、そのころ帰宅するためには、古町駅発午前一一時四四分の電車か、同駅発午後一二時〇四分の電車かのいずれかに乗車していたものと考えられる(前者の電車の山西駅到着時刻は、午前一一時五一分、後者の電車の同駅到着時刻は午後〇時一一分であって、これに自宅までの徒歩所用時間二〇分を考慮すれば、前者の場合は、午後一二時一一分、後者の場合は、午後一二時三一分に帰宅することとなる。)から、これを基準として、右病院から古町駅までの徒歩所要時間及び待ち時間合計二〇分を考慮して逆算すれば、栄は、前者の電車に乗車するためには、午前一一時二四分、後者の電車に乗車するためには午前一一時四四分に同病院を出発すれば間にあうはずである。

そうだとすれば、栄は、通常の場合、(丙)電車に乗車して右病院に午前一〇時三七分に到着し、午前一一時二四分に同病院を出発したか、若しくは(丁)電車に乗車して同病院に午前一〇時五七分に到着し、午前一一時四四分に同病院を出発し、その間に下足を預け、中央受付け、外科診療受付けで所要の手続きをし、順番を待ったうえ外科診療室において担当医師から問診、視診、触診を受け、穿刺、排液の処置を受け、下足を受け取っていたのであり、これが同病院での通常の診療及びこれに要する一連の行動であったのであり、その間同病院に滞留していたのである。これにもとづいて、通常の場合の同病院における栄の滞留時間を算出するには、右病院到着の時刻と出発の時刻の差をみればよいから、これに従えば、その滞留時間はおおむね四七分となり、更に(丙)電車に乗車して右のように右病院に到着したが、なんらかの事由により古町駅午前一一時四四分発の電車に乗車できずに、ひと電車遅らせたときには、約一時間七分病院に滞留したものと推測することが可能である。

(3) 右(2)掲記の通常の病院滞留時間を基礎とし、(1)掲記の本件注射当日における栄の病院到着時刻、退出時刻に照らして本件注射の時刻及びその後の安静時間を求めるに、右病院到着時刻に右通常の滞留時間を加えた時点が本件注射の時刻であり、その後病院退出までの時間がおおむねの安静時間とみればよいから、これに従い、本件注射の時刻及び注射後の安静時間を算出すれば、当日前記甲電車に乗車して来院したときは、本件注射の時刻は午前一〇時一二分、若しくは午前一〇時三二分(通常の病院滞留時間が前記のように長、短の二とおりが考えられる。)であり、前者のときは、その後の安静時間が一時間一二分、後者のときは、その後の安静時間が五二分となり、前記乙電車に乗車して来院したときは、本件注射の時刻は、午前一〇時二七分、若しくは午前一〇時四七分であり、この前者のときの安静時間が五七分、後者のときの安静時間が三七分となる。そうして、国立松山病院においては、ペニシリン製剤(マイシリンも含む。)の注射を行ったときは、注射後患者を三〇分以上安静に保たせる旨が看護婦に至るまで周知、徹底されていたから、右のように算出された安静時間は、とりもなおさず栄が本件注射後、中央処置室等において安静を保持していた時間であるとみるべきである。

2  栄は、帰途古町駅から電車に乗車した直後に異常感を感じ、そのままこれが、自宅に帰るまで持続したというのであるから、右異常感を感じたことがマイシリン過敏性ショックの発現であるとすれば、本件注射の時刻を基点として右発現時までの時間は、最長一時間三二分、最短五七分の時間(右掲記の安静時間に病院退出後古町駅迄の徒歩所要時間及び電車待ち時間合計二〇分を加算した時間)を経過していたのである。マイシリン過敏性ショックがかような長時間の経過後に惹起することは極めて稀れな事例であるとしなければならない。

更に右異常感を覚えた後の栄の症状並びに時間的推移はどうかというに、古町駅から乗車後山西駅で下車するまで、電車所要時間が七分間経過し、更に山西駅で下車した後同駅附近で暫く休んだ後、三本柳橋を徒歩で経過して知人の自転車に乗せられて帰宅するまで優に二〇分間経過しており、帰宅後栄が着換えをし、母神野マス子と話しをかわし、同女が栄の手当てのため氷を買いに行って戻った直後栄が死亡したのであって、かような経過からすると、栄は右異常感を覚えた後死亡するまで少くとも三〇分ないし四〇分の時間が経過したこととなる。かようなことも、絶無とはいえないまでも、極めて稀れな事例である。

しかも、栄が山西駅で下車した後の同人の右のような行動によれば、異常感を覚えた症状は、少くとも帰宅までは波型に悪化して行ったと考えられるところ、かような症状の移行態様はマイシリン過敏性ショックの発現形態とされる型とは著しく異なる。

これを要するに、栄の死亡は、マイシリン過敏性ショック以外の原因によるものと考えるのが合理的であり、妥当な判定といわなければならない。

(三)  栄の死亡原因及びその病原の重篤性を予見し得なかったことについて。

1  栄について病理解剖がなされていないので潜在性疾患、素因等から死因を推定することができず、患部の切開がなされていないので、栄の頸部の腫瘤がどの程度頸部の臓器、神経、血管に関連していたかは不明であるが、触診によれば、栄の腫瘤は移動性がなく、深部に根をおろしていたものと思われる。そうして、栄が帰宅の途中異常感を覚えた後自宅に到着して死亡するに至った前記のような経過によれば、栄の腫瘤が増大し、これにより深部臓器等を圧迫し、また炎症の増悪によって、炎症が近接臓器等へ波及、侵襲したものと推定される。

福田、本吉両医師は、触診の結果栄の腫瘤が増大し、これによる深部臓器の圧迫、炎症の拡大等により気管、咽喉頭、頸部神経、血管に侵襲が及ぶことのあり得ることを考えてこれを予防するため本件抗生剤を使用した。しかし、栄は、意外にも連日深更にわたる洋裁賃仕事、不眠による肉体的精神的過労により、ショック準備状態が形成、具備されており、更に頸部迷走神経、反回神経に炎症が浸潤して神経の刺戟感受性が高まっていたところに、穿刺排液により嚢腫の内圧が急激に変化し、これが頸部迷走神経を刺戟し、従前の平衡状態を乱し、一過性のショックを起したものであったが、右のようなショックの諸誘因に加えて、栄が本件注射を受けた後安静にしたものの、病院退出後徒歩及び電車で自宅に帰る等の運動をしたため、一過性のものが回復せず、山西駅で下車後一たん軽快したけれども、徐々に全身性低血圧が生じ、死亡の結果を招いたものと思われる。

栄の死亡直前における咽喉異常感は、頸部原疾患による圧迫感にもとづくものであり、全身紅斑様発赤は、細菌感染による炎症増悪を原因とする発熱に伴う顔面紅潮と平行して生じた表在性の毛細血管の拡張により全身の紅潮と解すべきである。それに、当日帰宅に至るまでの栄の運動と気温の影響が更に加わったものと思われる。

2  福田、本吉両医師において、栄の疾患が右のような重篤な状態に陥るであろうことは予見することができなかった。すなわち、栄は患部を手術することに承諾しなかったから、原疾患の病名を確定する方法がなく、従って腫瘤の増大による頸部神経、血管等の圧迫、浸潤の程度はまったく診断できなかった。従って、右のように侵襲が急激に起ることは予見することができず、栄が手術を承諾しない以上穿刺排液並びに抗生剤投与のみをもって治療したことはやむをえない措置であり、穿刺排液によって死亡の結果が招来されたとしても不可抗力といわなければならない。

(四)  国立松山病院の福田、本吉両医師の栄に対する診療にはなんらの過誤が存しないことは、前記(一)掲記の栄に対する診療の経過において主張したとおりであるが、なお控訴人は、昭和三四年一〇月五日福田医師が行った穿刺排液の措置の際に栄が双球菌を感染させられ、栄の病状が一変して悪化した旨主張するので、これにつき反ばくする。

1  およそ双球菌にはグラム染色分類法によりグラム陽性球菌(ぶどう球菌、連鎖球菌、肺炎菌)、グラム陰性球菌(淋菌、髄膜炎菌)とに分類される。そうして、病源性双球菌としては肺炎菌、淋菌、髄膜炎菌とがあるが、これらは一定の侵入経路により体内に侵入し、特有の疾患を起すものであるから、皮膚の化膿性疾患とは無縁のものである。その他の双球菌は非病源性細菌として空気中にも存在し、皮膚表面に無数に附着しているものであるから、検体液の採取方法、鏡検の方法等によっては検体と関係なく認められることがある。従って、栄の穿刺液から、かような双球菌が検出されたということだけでは、右病院における穿刺排液の際に感染させられたものと断定することができない。

2  仮りに、皮膚の化膿性疾患の原因となる双球菌に感染させられたとしても、頸部は顔面とともに好感染部位であり、穿刺による皮膚損傷を伴わない場合でも不顕性の感染(感染しても発病しない)は普通のことであって、発病するか否かは、人体の抵抗力と病源体の感染力との力関係によって定まる。従って、栄の右感染が双球菌によって感染したものであっても、その感染の原因及び時期は推定することが不可能である。

3  福田医師が右のように一〇月五日栄に対し穿刺排液の措置をとった後も栄の患部は発赤、発熱、疼痛等の炎症の徴候がなにも認められなかったから、仮りに栄の患部が化膿性疾患の原因となる双球菌に感染していたとしても、それは、不顕性感染として生体内の感染に対する自然的防衛機能により回復が可能なものであった。従って、福田医師が前記((一)・2掲記)のように栄の患部につき混合感染の疑いを持つまでは、化膿性疾患との疑いを抱く余地がなかった。

(五)  控訴人の当審における主張中、神野マス子の死亡及び控訴人らの相続に関する事実を認める。

理由

一  訴外岡田栄(控訴人岡田正雄と訴訟承継前原告神野マス子間の子)が昭和三四年一〇月一七日午前国立松山病院外科外来診察室において同病院外科担当医師本吉正晴の診察を受け、同医師が栄につき治療の目的でマイシリン四〇万単位を注射すべき旨を同病院看護婦木下ヒロ子に対し指示し、これにより同看護婦が同病院中央処置室において栄の臀部筋肉内に右薬剤を注射したこと、栄が同日右注射後右病院を退出し、自宅であった神野マス子方に帰り着いた後、同所で死亡したこと、栄の死亡により控訴人岡田正雄及び神野マス子が栄の遺産を各二分の一の割合により相続してその権利義務いっさいを承継し、ついで神野マス子が昭和四二年一一月六日死亡し、これにより控訴人岡田穣、同岡田得多、同岡田セイ子、同岡田芳の四名がマス子の遺産を各四分の一の割合により相続し、右控訴人ら四名においてマス子の有した権利義務いっさいを承継したこと、以上の事実は当事者間に争いがない(以上の事実中、右注射に使用された薬剤につき、控訴人岡田正雄及び訴訟承継前原告神野マス子らは、原審において「ペニシリン」である旨主張していたが、当審において控訴人岡田正雄及び右記の控訴人ら四名は「マイシリン」である旨述べて、従前の右主張を変更したため、この点に関し当事者間に争いがなくなった。なお、木下看護婦の資格については後に述べる。)。

二  まず、栄の死亡が控訴人主張のように、右注射(以下、本件注射という。)により惹起されたマイシリンによる過敏性ショックにもとずくものであるかどうかにつき判断する。

(一)  国立松山病院における栄の診療の経過及び本件注射当日までの栄の症状について。

≪証拠省略≫を総合すれば、次の事実を認めることができる。≪証拠判断省略≫

1  栄(昭和八年五月一二日生)は、昭和三二年五月ころ左下顎下部の頸部に腫れ物ができたような異常感を覚え、同年一〇月一一日岡山大学附属病院外科、同年一一月一八日九州大学附属病院外科を訪れ、診察を仰いだところ、前者では、左頸部嚢腫(嚢腫とは、腺管が高度に拡張し、同時にその内面を覆う腺腫細胞も増殖する疾患)と診断され、後者では、左下顎下部寒性膿瘍と診断された。栄の右患部には、岡山大学附属病院で診察を受けた当時から小鶏卵大の腫瘤の形成が見られ、同病院の担当医師が入院手術をすすめた。

2  ついで、栄は、同年一一月二一日国立松山病院外科を訪れ、同病院外科担当の菊原医師の診療を受け、同医師から、患部に貯溜した滲出液を排除するため、穿刺、排液の処置を受けたが、これを初回として以後別紙診察及び治療一覧表のとおり、同病院に通院して同病院外科担当の本吉医師、福田医師または右菊原医師により診察及び穿刺、排液の治療処置を受けてきた。すなわち、右初診のころには栄の患部の腫溜は鶏卵大若しくは小児拳大に肥大していたところ、疼痛が認められず、穿刺後の排液は黄色若しくは黄褐色を呈し、この滲出液を培養検査した結果結核菌の存在が認められなかった。かような症状であったため、本吉、福田両医師は、栄の疾患を先天性頸部嚢腫と診断し、根本的治療のためには入院、手術を要するものと判断して、栄にこれをすすめたが、栄はこれを受け入れず、穿刺、排液の処置を受ければ、患部の内部圧迫が除去され、楽になるところから、穿刺、排液の処置をとってもらうことのみを求めて、右病院に通院していた。

3  ところで、右のように排液の処置を繰り返すときは、内部の圧迫がとれる反面、腫瘤内部において滲出液の分泌を促すため液の貯溜の速度が増加する結果を見るものであって、福田医師は昭和三四年二月二三日の診察の際、かような徴候を認め、栄に対し手術の処置を受けるべきことをすすめたが、栄はなおこれに応ぜず、排液の処置をとることのみを要望したので、同医師は患部を穿刺し、滲出液を排除した。

4  その後栄は、別紙一覧表記載のように同年八月一日、同月八日、同年一〇月五日、同月一二日の四回にわたり右病院において福田医師若しくは本吉医師により患部を穿刺、排液の処置を受けた。

5  この間、右一二日の前日である同月一一日に至り栄の患部は異常に腫脹し、栄がこれに気づき、疼痛もあったため、同日松山市内の野本病院を訪れて治療を仰いだ(当日は日曜日であったため、一般に休診日であった。)。そうして、同病院の当直の医師が診察し、患部を穿刺して内部の液を排除したところ、黄色の混濁液が認められた。更に、翌一二日再び同病院を訪れた栄を診察した同病院の広津留医師は、当日の所見および右排液の状況等から栄が前記患部に従前から持っていた嚢腫に最近感染がおこったものとして、左頸部感染性膿腫との診断を下し、ペニシリン四〇万単位を注射した。なお、右病院で穿刺して排液した滲出液につき検査の結果は、グラム陰性双球菌、グラム陽性双球菌ともにその存在が認められた。

6  栄は、同年一〇月一四日に至っても、右のような異常な症状が持続していたので、国立松山病院に赴き、その旨を福田医師に訴え、同医師は栄の主訴及び患部の所見から、患部に混合感染(細菌による化膿)の疑いを持ち、これに対処する措置としてペニシリンゾル六〇万単位を臀部筋肉に注射すべきことを看護婦に指示し、かつみずから患部に結晶ペニシリン一〇万単位を注射した。そうして、栄は、同病院中央処置室(これについては、更に後に触れる。)において同病院所属看護婦藤田百合子により右ペニシリンゾルの筋肉内注射を受けた。

7  しかし、栄の右症状は、その後においても軽快せず、かえって腫瘤が増大する傾向にあったので、栄は、同月一六日右病院外科外来診察室において本吉医師の診察を受けたところ、同医師は、穿刺をさし控えて湿布を施し、鎮痛剤、神経安定剤を投与するにとどめて、経過を見ることとした。

その翌一七日午前栄が右病院に来院したので、本吉医師が診察にあたったところ、栄は疼痛及びこれによる不眠を訴えており、患部の腫瘤も縮小の形跡がなく、かつ熱感があり、穿刺した結果排除された滲出液は粘着性のある濃い褐色を呈示し、更に血液様のものが混入していたことが認められた。そこで、同医師は栄の患部に化膿菌の存在を強く疑い、その治療のため、前記のように栄に対し数日前にペニシリンの注射を施していたため、マイシリンが効果があると考えて、その四〇万単位を筋肉注射すべき旨(本件注射をすべき旨)を中央処置室に配置されていた看護婦木下ヒロ子に指示した。

8  右のように本吉医師が穿刺、排除した滲出液は、同医師において培養検査に付したが、その数日後(栄の死亡後)の同月一九日ころ化膿の原因となり得るぶどう状球菌が顕出された。

以上の事実を認めることができる。

(二)  本件注射の手順、その状況及び注射直後の安静について。

≪証拠省略≫を総合すれば、次の事実を認定することができる。成立に争いのない甲第一五号証の供述記載及び原審における控訴人岡田正雄本人尋問の結果中、この認定とてい触する記載は後に述べるように採用するに足りず、その他にこの認定を妨げるに足りる証拠はない。

1  国立松山病院においては、看護婦の定員制実施にともなう看護婦の人手不足を補うため、従前各科で個別的に行っていた注射業務を一個所に集めて行うこととし、本件当時までこれを外来診療棟一階の玄関入口の南側に隣接する一室に設け、ここを中央処置室と称していた。そうして、この中央処置室には、常時、正規の看護婦(看護婦資格を有する者)一名、補助の看護婦(看護助手)二名を配置して医師の指示により注射を行わせ(その注射は、輸血、点滴注射等特別に注意を要する注射、直接に患部に対してする注射を除き、通常、皮下注射、筋肉(臀部)注射等を行い、時には静脈注射を行うこともある。)、中央処置室前の廊下をへだてた向かい側にある内科診療室勤務の医師の監督に服するものとされていた。当時、中央処置室配属の正規の看護婦として藤田百合子が配置されていたところ、本件注射の当日は、たまたま同看護婦が出張、不在であるため、その不在期間中、内科病棟に配属されていた木下ヒロ子看護婦が中央処置室に配置されることとなったのであるが、同看護婦は、看護婦資格を有する正規の看護婦であって、昭和二七年八月以来同病院に勤務し、以来、耳鼻科、内科、外科、歯科に所属し、本件事故当時内科に勤務していた経験者であって、代勤にあたっては、あらかじめ、藤田看護婦から、中央処置室の事務の引きつぎを受け、薬品等の所在場所も教えられていた。

2  右病院外来各科の診察室において、医師から中央処置室において注射を受けるべき旨の指示を受けた患者は、その旨を記載した伝票を受け取ったうえ、これを右外来棟玄関入口のすぐ前にあるホール(待合室)の隣りの出納室に持参して、料金の支払をし、ついで中央処置室に赴いて領収済みの印のある右伝票を提出して、指示された注射を受けることとなるが、中央処置室に詰めている看護婦は右伝票により、患者に打つべき注射の内容を知ることができ、その指示どおりに注射を行うのであった。

3  本件注射の当日栄は、前記のように外科診察室において本吉医師からマイシリン四〇万単位の筋肉注射を中央処置室において受けるべき旨の指示を受け、同時に乙第一号証の四の伝票を受領して、前記の出納室において料金の支払をし、ついで中央処置室に料金領収ずみの印のある右伝票を提出した。そうして、木下看護婦は、その伝票にもとづき本吉医師の指示に従い、栄の臀部筋肉にマイシリン四〇万単位の本件注射をした。右注射は、中央処置室に備えつけの木製ベッドに栄を寝かせたうえ、同看護婦が行ったものであり、同看護婦は注射後栄に対しそのまま暫く安静にすべき旨を命じ、栄は、その位置で暫く安静を保った(ただし、その安静時間がどれ程であったかを確定することは困難である。)。

以上の事実が認められる。

ところで、成立に争いのない甲第一五号証は、控訴人岡田正雄らの原審における訴訟代理人小島利雄が、さきに(昭和三五年四月一九日)木下看護婦が参考人として、松山市東警察署警察官に対して供述した供述調書を閲覧した際、心覚えにとったメモであることが本件口頭弁論の全趣旨に徴して明らかであるところ、同号証には、木下看護婦はペニシリン注射後患者が安静にするかどうかは患者に任せている旨の記載があり、この記載は一見前認定とてい触するかのようである。しかし、(イ)木下看護婦は、前述のとおり、正規の看護婦資格を有する経験ある看護婦であって、本件注射の当日は、出張中で、不在であった藤田看護婦に代わり、中央処置室における注射業務を医師の指示に従い主宰していたものであったことは、≪証拠省略≫に照らして明白であり、(ロ)右注射後の安静保持の点に関しては、成立に争いのない乙第三号証(昭和三一年八月二八日医発第七四三号各都道府県知事宛、厚生省医務局長、薬務局長連名通知)に、≪証拠省略≫をあわせれば、昭和三一年ころからペニシリン製剤の注射による過敏性ショックの発生が関係医師はもちろん、世上において一般に論議を招いたため、厚生省が上掲通知をもって、右注射時及び注射後において注意すべき事項を各都道府県知事宛に通知し、その認識を深めることを要請したこと、右通知にはペニシリン製剤の使用後は一五分ないし三〇分間患者を安静に保たせる必要があるものと記載されており、国立松山病院においては、病院長の清水政視が右通知の趣旨を受けて、同病院内においてペニシリン製剤の注射の副作用防止の措置に関する注意書を起案したところ、安静の保持及びその安静時間に関しては右通知と同じ注意を要するものとして、右注意書にその旨を採用、記載したこと、そうして、これを同病院内の看護婦に周知、徹底させるため、総婦長高田キヨミを通じて全看護婦にこれを伝達、実施すべきものとしたこと、以上の事実が認められる。そうして、(ハ)右(イ)(ロ)の事実に上掲証人木下ヒロ子の証言を照らせば、木下看護婦は、平素ペニシリン製剤の注射に関し病院長の清水の発した右注意書記載の注意事項について、十分認識があったことが認められる。以上(イ)(ロ)(ハ)の事実に前掲本吉正晴の証言(本件注射を指示した後他の患者の診察を続けていたところ約三〇分くらいたって栄が「先生楽になりました」と挨拶して帰った、その時刻は午前一一時ころと思う旨)及び前掲木下ヒロ子の証言(栄の下顎が痛そうであったから痛みがなおるまで休むように言った旨)を考えあわせれば、木下看護婦は、栄の下顎部分が痛そうに見えたこともあって、栄に注射後暫く(その時間がどの程度であったかはともかく)休んでゆくように言い、栄も、痛みがおさまり楽になるまで暫く休んだ後、診察室に引き返して、本吉医師に「楽になりました」と挨拶をして病院を退去したものと認めることができる。

前掲甲第一五号証の記載は、前述のようなその作成経緯及び記載内容に照らし、微妙にわたる木下ヒロ子の警察における供述の全趣旨を正確に記述したものとは必ずしも認められないうえに、前掲木下証言に照らせば、右記載の趣旨は、患者が安静を保ち気分がよくなって帰ろうとする場合に、命じた安静時間を守らないことがあっても、口やかましく止めることまではしなかったというほどの趣旨とも解されないでもない。従って、甲第一五号証は、前認定を動かすに足る証拠として採用することができない。その他≪証拠省略≫中、注射後の安静の点についての、前認定とてい触する供述部分も、以上の認定の基礎とした各証拠と対比して採用しがたい。

(三)  本件注射の時刻について。

1  前掲神野マス子の供述によれば、同人は、本件注射当日、栄が帰宅した際、栄から「電車は一一時四〇分であったが、この電車はいつもすいているのだけれども、寝るほどのこともなかったので座っていた。電車に乗ると具合が悪くなり、死んでしまいそうなほどであった。」旨を聞いたというのであるが、右神野マス子の供述調書によれば、電車の時刻に関する供述は、質問を待たないで自発的になされたものであるうえに、当日朝栄が自宅を出発した時刻についてのマス子の供述が終始動揺しているのにくらべて、電車の時刻に関する同人の供述は、反対尋問や裁判官の尋問に際しても、終始一貫して維持されていることが明らかであるから、この点に関するマス子の記憶は確かなものと認めることができる。ところで、≪証拠省略≫によれば、国立松山病院から最寄り伊予鉄道駅は古町駅であること、この間の徒歩所要時間は八分ないし一〇分であること(従って病人である栄にとっては、約一〇分を要すること)が認められるところ、≪証拠省略≫によれば、古町駅発午前一一時四〇分台の上り電車(栄の自宅に向う高浜行き電車)としては、午前一一時四四分のもの以外にないことが明かであるので、栄が帰途古町駅から乗車したとすれば、右一一時四四分発の電車に乗ったものと認めざるをえない。

そこで、栄が古町駅発一一時四四分の電車に乗車したものとして、これから逆算して、本件注射の時刻を考えてみるに、前記(二)に認定した事実によれば、栄が本件注射後暫く安静を保ち、楽になるのを待って、身じたくを整え、診察室に引き返して本吉医師に挨拶して病院を退出するまでに少くとも一〇分程度を要したものと認めることができる。病院と古町駅間の徒歩に約一〇分を要することは前述のとおりである。さらに、≪証拠省略≫によれば、右の時間ころ、電車は二〇分間隔で運転されていたことが明らかであるから、電車の待ち時間がまったくなかったということは通常考えられないので、待ち時間として約一〇分程度を考慮する必要があるものと考えられる。

してみると、栄が古町駅発一一時四四分発の電車に乗車したことを前提とすれば、本件注射の時刻は、午前一一時一〇分過ぎということになり、本件注射の時刻から栄が電車に乗って異常を感ずるまでに約三〇分経過していたこととなる。

2  以上の推認は、神野マス子の供述にいう「一一時四〇分の電車」なるものが「古町駅発」の電車であって、栄が帰途同駅から乗車したことを前提とするものである。しかし、≪証拠省略≫によれば、栄は、当日いつもより早く自宅を出発して前記野本病院に立ち寄り、同病院で撮影していたレントゲン写真を借り出し、これを持って国立松山病院を訪れたものであること(従って、帰途右写真の返還のため野本病院に立ち寄ることも考えられる。)。野本病院から最寄りの伊予鉄道駅は松山市駅であることが認められる。そうして、≪証拠省略≫によれば、マス子の前記供述に現われる電車の時刻に符合する、同駅発一一時四〇分の下り電車(この電車が古町駅発一一時四四分の電車となる。)があることが明らかである。これらの点から考えると、帰途、写真を返すために、野本病院に立ち寄り、松山市駅発一一時四〇分の電車に乗ったということも考えられないでもない。ところで、≪証拠省略≫によれば、国立松山病院と野本病院との間は徒歩約一五分を要すること、野本病院と伊予鉄道松山市駅との間は徒歩約八分を要することが明らかであるから、右徒歩時間の合計と1で認定したその他の所要時間合計約二〇分を考慮すれば、栄が松山市駅発一一時四〇分の電車に乗ったことを前提とする場合には、本件注射の時刻は、午前一一時前ということになり、栄が電車に乗車して異常を感ずるまで四〇分以上を経過していたこととなる。

3  以上12の考察を総合的に判断すれば、本件注射が行なわれたのは、午前一一時前後のころであって、注射後、栄が電車に乗車して異常を感じるまでに、三〇分ないし四〇分程度の時間が経過していたものと認めることができる。

なお、控訴人らは、本件注射が行なわれたのは午前一一時三〇分以後であると主張し、前掲控訴人本人尋問の結果中にも、これに添う供述があり、また、前掲甲第一五号証にも、「昼前ころ、岡田さんはどちらか頬をおさえて処置室に入って来た」との記載がある。しかし、午前一一時三〇分以後に本件注射が行なわれたとすれば、前認定のような徒歩時間その他の所要時間を考慮すれば、午前一一時四四分古町駅発若しくは午前一一時四〇分松山市駅発の電車に間に合わないこととなり、結局「一一時四〇分の電車」に乗った旨の神野マス子の供述と矛盾を生ずることとなるので、注射時刻に関する前記控訴人本人の供述及び甲第一五号証の記載は採用しがたい。

(四)  本件注射後栄が自宅に帰り着くまでの経過及びその死亡前後の状況。

栄は、当日、午前一一時前後に本件注射を受けた後、午前一一時四四分古町駅発若しくは午前一一時四〇分松山市駅発の電車に乗車したと認められることは、前認定のとおりであるが、≪証拠省略≫を総合すれば、次の事実を認めることができる。

1  栄は、電車に乗車してほどなく、気分が悪くなり、「死んでしまいそうなほどの気持」に襲われたが、これにたえて自己の降車駅の山西駅で下車し(電車は午前一一時五一分に同駅に到着したと認められる。)、同駅を出てから同駅附近の道ばたで暫らくあおむけに寝転ろんで気分の治るのを待った。そうして、気分がやや回復した後自宅に向かってゆっくりした歩調で静かに歩いて行ったところ、後方から知人の梅田花子が自転車で進行して来、同人から声をかけられたので、その荷台に乗せてもらい自宅に到着した。

2  栄は午前一二時過ぎごろ自宅前に到着するや、自力で右自転車の荷台から降り、梅田に礼を述べて、自宅に入った。そうして、自宅にいた母親の神野マス子に対し「ペニシリンを打って、首の液を取ったから楽になったが、一一時四〇分の電車に乗ったら、呼吸が苦しくなり、死にそうになった。山西駅で降りて、途中で梅田の自転車に乗せてもらって、家に帰って来た。医者が水で冷やしておけと言った。」等と述べて一応の経過を話したので、マス子は、栄の症状が悪化して、非常の事態に立ち至るものとは思わず、栄の求めるとおり患部を水で冷やすこととし、栄にすぐ寝るようにすすめた。栄は、自力で服を脱ぎ(当日栄は洋装で、上衣は半袖の夏服であった。)、布とんの上に横になったので、マス子は栄の身体に毛布を掛け、患部を更に冷やすために近所で氷を買い求め、自宅に戻ると、栄はまっ赤な顔をしながら布とんの上に起きあがり、鏡台をのぞき込んで、「のどに丸い物ができたような感じがする。」旨を述べていた。

3  ついで、マス子が氷嚢を近所の者から借りて来て自宅に再び戻ると、栄は、一そうまっ赤な顔をしており、マス子の姿に気づくや「かあちゃん、かあちゃん」と叫び、すぐに「いーっ」と叫んで立ちあがるようにしながら、マス子の膝に抱きつき、暫くして息が絶え、脈搏がなくなった。その直前ころ全身が紫色に変じ、ついでこれが消失して白ろう状を呈し、死亡した。その死亡の時刻は、同日午前一二時三〇分ころであった。(従って栄が死亡したのは、本件注射後約一時間半を経過した時期であった。)

4  前記福田医師は、同日控訴人岡田正雄の要請により栄の自宅に赴き、同人の死体を検分したが、出血なく、粘膜に溢血点がなく、前掲のような栄の通院当時の症状とあわせて、栄の死亡は左頸部蜂窩織炎によるものと診断した。

以上の事実を認めることができる。

前掲証人梅田花子の証言中には、栄が帰宅したのはお昼前であったとの供述があるが、前記1に認定した電車の到着時刻及びその後の経過から考えて、栄が午前一二時前に帰宅したとは考えられないので、梅田花子の右証言は採用できない。また、前掲神野マス子本人尋問の結果中には、栄の症状として、前認定状況のほか、紅斑様発赤があったとの趣旨にとられる供述部分があるが、その一方で、全身ゆでだこのようになったとの供述部分もあるところから考えて、果して、紅斑様の発赤があったかどうかは、専門家による正確な観察を欠く本件においては、これを確定しがたいものというほかはない。その他に以上の認定を左右するに足る証拠はない。

(五)  そこで、以上の諸事実にもとづき考察する。

原審における鑑定人川上保雄の鑑定の結果、同鑑定人尋問の結果(以下、これらを川上鑑定という。)に当審における鑑定人村上忠重の鑑定の結果及び同鑑定人尋問の結果(以下、これらを村上鑑定という。)をあわせれば、前記(一)掲記の栄の症状及び(四)掲記の栄の死亡直前の症状のもとでは、その死因としては、一応急性心臓死、蜘蛛膜下出血、ペニシリン製剤の注射による過敏性ショック死、栄の左頸部嚢腫に炎症が生じ、深頸部蜂窩織炎に進展し、咽喉頭浮腫ないしは後咽頭膿瘍が併発し、(かように進展した症状をルードビィッヒ口峡炎という。)窒息死したものとの四者の場合が考えられるところ、右各鑑定の結果及び≪証拠省略≫を総合すれば右のうち、前二者は栄についてその可能性がないか若しくはその発生の公算がほとんどなく、栄の死因は後二者のうちのいずれかである公算が極めて大きいものと認められ(なお、村上鑑定によれば、頸部蜂窩織炎とは、通常、皮下の結合組織に主としてぶどう状球菌、連鎖状球菌が感染して発生する症状であり、発赤、発熱、腫脹、疼痛、硬結が見られ、蜂の巣のように進行性に炎症が進展するものであることが認められる。)、右認定を妨げるに足りる証拠はない。

ところで、

1  前掲(一)ないし(四)掲記の各事実を通じてみれば、栄は左頸部の患部に疼痛があったが、栄自身はもちろん、福田、本吉両医師においても重篤な症状に進展するものとは思わなかったこと、本件注射後約三〇分ないし四〇分経過した段階で、栄が前記上り電車に乗車してほどなく(右電車は、古町駅午前一一時四四分発)にわかに呼吸困難を覚え、死にそうな苦痛を感じたことが認められる。

2  上掲川上鑑定、村上鑑定によれば、本件注射に使用された薬剤はマイシリンであったところ、マイシリンは、ペニシリンとストレプトマイシンとの合製剤であるが、その薬剤ショックの発現の機転、症状は、ペニシリンのそれとまったく同じであることが認められる。

3  右両鑑定に≪証拠省略≫をあわせれば、ペニシリン製剤の注射による過敏性ショックは、約三万回に一回の頻度で発生するものであり、必ずしもその頻度は高いというに値いしないものであること、その発症は、通常注射後約一五分以内に起り、かつその八〇パーセントのものが注射後五分以内に起るものであるが、注射後一時間以上経過して発生するものも稀れにはあること(前者の発症の場合は即時型、後者の形態に属するものは遅発型といわれる。)が認められる。従って、栄の症状が仮りにマイシリンによる過敏性ショックであったとすれば、いずれかといえば遅発型に属するものと認められる。

4  右両鑑定によれば、ショックの発症の初期には口内異常感、冷汗、悪心、嘔吐、等が起り、第二期としては胸内苦悶、呼吸困難、喘息発作が起り、声門浮腫が起って、口唇、手足にチアノーゼが生じ、第三期として意識混濁、けいれん、失禁が起り、死に至るという経過を辿ることが認められる。

他方、

イ 前掲(一)5、6の事実によれば、栄は本件注射を受ける以前の同年一〇月一一日前記野本病院においてペニシリン四〇万単位の注射を受けたが、これにつきなんらの過敏反応がなく、ついで同月一四日福田医師が混合感染の疑いを持ち、患部に結晶ペニシリン一〇万単位と、臀部筋肉にペニシリンゾル六〇万単位を注射したが、このときも過敏反応が起らず、栄には異常がなかったことが明らかである。更に、≪証拠省略≫をあわせれば、福田医師は、同月一四日右ペニシリン注射を行うに先きだち、栄につき過敏反応の有無を検査するため検査液を使用して皮内注射を行うべき旨を看護婦に指示したうえこれを行わせたがその結果は、なんらの反応を示さなかったことが認められる。

栄について、かようなペニシリン注射の使用歴があったうえで、本吉医師が本件注射を指示し、これが行われたわけであるが、前記両鑑定によれば、前のペニシリン注射時から一週間以上の間隔を置いて再度ペニシリン注射を行うときには過敏性ショックを起す可能性があるが、三日置きに連続してペニシリン注射が行われ、前の注射に際し異常がなかったときは、たとえペニシリンに感作されていた(一たんペニシリンを抗原として、これに対し体内に抗体が生じていた状態であった)としても脱感作の作用によりペニシリンの過敏性ショックの発生をまぬがれることがあるため、爾後の注射につきペニシリン過敏性ショックの発生はほとんど稀れであると考えられていたことが認められるから、本件注射の際には栄につき、通常右過敏性ショックは発生しないものと期待し得たということができる。

ロ 前掲両鑑定をあわせれば、ペニシリンの遅発型ショックは、前記のように稀れに発生するものであるところ、これが生じたとしても、皮膚粘膜の発疹、血管神経性浮腫、悪心、嘔吐、腹痛等の軽症の場合が多く、重症に至るものは稀れであること、一般にペニシリンの過敏性ショックが発症した場合で、重篤な状態に至るものは、適切な応急処置がとられない限り急速に悪化して、死の転帰をみるのが通常であって、右症状が発生した場合一旦症状の軽快化した後再び重篤化することは通常なく、この点については、即時型と遅発型とで区別はないと考えられていることが認められる。そうして、これを前掲(四)掲記の栄が電車に乗車中に異常を感じ、降車駅である山西駅で下車した後、途中で一旦軽快化した後自宅に帰り着き、ついで症状が悪化した経緯に関する事実に照らせば、ペニシリンの過敏性ショックの発症としては異例な経過、症状の推移と考えざるを得ない。

ハ 前掲(一)、8認定のように、本吉医師が前記一〇月一七日穿刺して排除した患部の滲出液を培養検査した結果ぶどう状球菌が顕出されたのであり、これによれば、栄はこの菌に感染し、患部が化膿していたと認めることができるから、深層部に蜂窩織炎が拡大し、悪化の一途を辿る蓋然性が強いと認められる。

ニ 前掲(四)、2、3掲記のように栄は死亡の直前、「のどに丸い物ができたような感じがする」旨述べ、ほどなく「いーっ」と叫んで死亡するに至ったのであって、この事実に村上鑑定を照らすと、左頸部の深部蜂窩織炎が咽喉頭を侵襲し、咽喉頭浮腫ないしは後咽頭膿瘍が併発して窒息死したものと考えるべき蓋然性が大きいと考えられる。

もっとも、村上鑑定によれば、深頸部蜂窩織炎に拡大し、炎症が咽喉頭を侵襲して、いわゆるルードビィッヒ口峡炎を起すには、通常三日ないし四日を要するとされていることが認められるが、前掲(一)、5認定の事実によれば、栄は、一〇月一一日野本病院で診察を受けた当時既に右ぶどう状球菌に感染していたものと考えられるから、既にそのころまでに右感染の原因が与えられたものと認められるのであって、ルードビィッヒ口峡炎が発症したとしても、この点の矛盾は存しない。

以上1ないし4及びイないしニの諸事実及び諸事情を比較考量して、栄の死亡の原因を考えてみるに、その原因が本件注射により惹起されたマイシリンの過敏性ショックによるものか、それとも村上鑑定のいうように、栄は、左頸部嚢腫につきぶどう状球菌に感染し、頸部蜂窩織炎を起し、ついでこれが深頸部に及び、更に咽喉頭に炎症が拡がり、いわゆるルードビィッヒ口峡炎の症状となり、窒息死に至ったものかは、遂に明らかではなく、結局、栄の死因は、マイシリン注射による過敏性ショックによるものとは断定しがたいものと判断せざるをえない。従って、栄の死因が右ショックによるものであることを前提とする控訴人の主張は、爾後の争点につき判断するまでもなく、理由がないものと認めざるをえない。

三1  控訴人らは、なお、福田医師が前記一〇月五日栄につき患部を穿刺、排液の処置をとった際、右細菌に感染させられた旨を主張するので考えるに、右穿刺、排液の処置の際化膿性の細菌が患部に侵入する可能性は否定することができないところであるが、前掲(一)記述のように栄が患部に熱感、疼痛等の異常を覚えたのは同月一一日のことであって、それまで右異常感がなかったことが認められるので、右の五日の穿刺に感染があったとするには、発症までに時間的へだたりがあり過ぎると考えられるし、右穿刺、排液に使用された医療器具に特別に細菌が附着するような状態であったとか、これが消毒されないままに使用された等の特段の事情の認めるべき資料のない本件では、穿刺排液後、数日経過した後患部が化膿したという事実だけで、右穿刺、排液の際に感染の原因が与えられたものとにわかに断定することができない。その他本件全証拠によっても控訴人の右主張を認めるに足りない。

2  更に、原審証人本吉正晴の証言によれば、同医師が本件注射の当日である一〇月一七日前記のように穿刺、排液の処置をとり、本件注射を指示したが、そのほかになんらの処置をとらず、同人においてその当時、栄が同日急死するに至ることを予見しなかったことが明らかである(この点は、前に認定した。)。

しかし、前掲(一)認定事実によれば、同医師若しくは福田医師らは、栄が化膿性細菌に侵されるまで、左頸部嚢腫の根本的治療のためには、入院、手術を受けるほかない旨述べて、これをすすめたが、栄はこれを拒絶していたことが明らかであり、同証言及び村上鑑定によれば、嚢腫が深部組織とどのように関連しているかは、患部を切開して見るまでは確認することができないこと、栄が当日患部の疼痛を訴えていたが、外見上極度の苦痛をたえていたように思われなかったこと、そこで化膿した患部疾患の対症療法として本件注射によりマイシリンの筋肉注射を指示したことが認められ、右認定を妨げるに足りる証拠はない。

してみれば、左頸部嚢腫が化膿性細菌により感染した場合、前記のように、深頸部蜂窩織炎に進展する可能性があるにしても、栄について右のようにペニシリン薬剤を含むマイシリン注射により軽快しうることも十分に考えられるのであって、同医師が栄の右症状が重篤な症状であったことを認識せず、マイシリン注射等の措置をとり軽快を待ったことをもって、これを過失あるものとして責めることができず、かつ右当時本件注射によりマイシリンを投与したことは、栄が手術に応じなかった以上、適切な処置と認めるほかないといわなければならない。

四  以上に判断したとおり栄の死因がマイシリン注射により惹起された過敏性ショックによるものとは断定し得ず、その他本吉医師に医療上の過失があったとも認められない以上、控訴人らの本訴請求は、すべて理由がないから、いずれもこれを棄却すべきであり、これと結局同趣旨の原判決は相当であって、本件控訴は、いずれもその理由がない。

よって、民事訴訟法第三八四条に従い本件控訴をいずれも棄却することとし、控訴費用の負担につき、同法第九五条、八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 白石健三 裁判官 川上泉 間中彦次)

<以下省略>

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